わたしが子どもだった頃の、お母さんの靴の記憶。
コツコツコツという、お母さんの足音。
夕方の光が漂う頃、
「ただいま」と一緒にふんわりと香る良い匂い。
「今日のご飯なに?」
お母さんの顔をみるとほっとした。
小さいときは、音のなるヒールのある靴に憧れたものだった。
こっそり足を通してみたお母さんの靴はぶかぶかだったし、コツコツという音はうまく出なかったけれど。
「将来は何になりたいの?」
そう聞かれることが苦手だった。
返答に困っているわたしを見て、
「何にでもなれるもんね」
お母さんはちょっと羨ましそうに言った。
そう言われると何にでもなれる気がしたけど、何になれば良いのかちっともわからなかった。
あれから十数年、それなりに迷いながらもわたしは育ち、大人になった。
いつの間にか、お母さんの好きな靴の、靴屋さんになっていた。
あの頃、靴屋さんになるなんて想像さえしなかった。
気持ち良い。
ここにいたい。
何となく、好き。
そんな場所へいつの間にかたどり着いたのかもしれない、たんぽぽの綿毛みたい。
あの頃のお母さんの足元を支えた靴。
それを今、たくさんの人に届ける仕事をしている。
いつの間にかお母さんと同じ背丈になり、ヒールはもうぶかぶかではない。
お母さんと並んで、同じ靴を履いている。
コツコツコツ、上手に鳴らせているかしら。
この靴を見ると、未来と過去、今が交錯するような、不思議な感覚になる。
あの頃と今と、お母さんとわたし。
あの頃の自分へ、あの頃のお母さんへ。
‘良い靴は素敵な場所へ連れて行ってくれる’
まんざら、嘘ではないのかもしれないね。
お母さんの靴/TRENDY Black Velvet
編集:吉中