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きみがいるから明日も歩ける #2 / ものすごい愛

 
ものすごい愛さんのエッセイ、第2話。
 
札幌在住、エッセイストでありながら、薬剤師。
そして実は、NAOTの靴のご愛用者のひとりでもあるのです。
 
そんな彼女の生活からお届けしています。
今回は…突然の怪我のエピソード。
 
おとなだって、転びます。
札幌の冬は、きびしいなあ。

 

#2


 
……痛い。痛すぎる。
手が痛い。膝が痛い。それ以上に、左の足首にジンジンと帯びた熱を無視できない。
満足に息を吸えないのは、北海道の真冬の夜特有の凍てついた空気のせいなんかじゃない。
 
あまりの痛みに道路に突っ伏したまま動けずにいると、凍った道路によってコートからはみ出した手足がみるみる冷やされていくのがわかる。
……冷たい。今度は冷たすぎて痛い。
違うんだ。冷やしてほしいのはそこじゃないんだ。
たしかに手も膝も痛かったけれど、一番痛いのは足首なんだ。
 
痛い。寒い。つらい。誰か助けて。
ありとあらゆる感情が入り乱れ、もういっそのことこのまま声をあげて泣いてしまおうかと思った瞬間、「大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」と上から知らない声が降ってきた。
声の主である女性は純粋に心配してくれているのだろうということは十分にわかったが、それほど自分が“ヤバイ状況”に見えるということに気づき、幾分か冷静になるのと同時に途端に恥ずかしさが込み上げてきた。
「うへへ……大丈夫ッス……なんかもう、わたしのことなんぞお気になさらず……無視して行っちゃってくださいな……へへへ……」
赤面した顔をなんとか上げつつも、決して目だけは合わないように気持ちの悪い返事をするのが精いっぱいだ。
暗がりではっきりとは見えなかったが、やさしい声の主は「そうですか……? じゃあ……」と、“ヤバイ状況”に陥った“ヤバイ奴”からそっと離れて行くのがわかった。
彼女が見えなくなるのを待ってから、なんとか体を起こし、(周りにどう思われたって知るか、こっちはそんな余裕なんてないんだ)と強い気持ちで這いつくばりながら、近くに止まっていたタクシーに体を押し込んだ。
 
タクシーが揺れるたび、痛みに顔をしかめる。
昼夜の寒暖差のせいで、路面状況は最悪だ。
思えば、今日は一日中とことんツイていなかった―――
 
*****
 
朝、お弁当箱にごはんを詰めようと炊飯器をあけると、想像していたほかほかの湯気が溢れてこない。
不思議に思って中を覗いてみると、お米は炊けておらず、水に浸かったまま。
「スイッチ、押し忘れた……」
朝食とお弁当用のごはんがないことが決定し、がっくりと肩を落とす。
しかし、呆然と立ち尽くしている時間はない。朝が忙しいことは万人に通ずる。
仕方なく、お弁当箱にはおかずとサラダだけを詰め、夫に「ごはん炊き忘れたから、朝ごはんはなし! お弁当もお米はなし! コンビニでおにぎりでも買って!」と、おかずとサラダだけを詰めたお弁当箱を渡して見送った。
 
空腹のまま慌ただしく身支度をし、夫に遅れてわたしも仕事へと向かう。
マンションのエントランスまで降り、オートロックの入り口を出てすぐに、今日は資源ごみの日だということに気づいた。
週に一度の資源ごみの日は、どうしてこうも頭からすっぽ抜けるのだろう。
先週も、先々週も、出し忘れている。
非常に面倒くさいことに、我が家はエレベーターのない四階建てのマンションの四階に位置し、忘れ物をした際はまあまあの根性を出して昇り降りする必要がある。
一瞬、忘れていたことに気づいたことを忘れたふりをし、無視をしたまま仕事へ向かってしまおうか。
―――絶対に取りに戻って出したほうがいいと思うけどね、絶対に来週も忘れるよ。
足元から正論が飛んできたため、まったくもう! と自分への呆れを振り払うかのように、四階までの階段を勢いよく駆け上った。
 
ゼェハァと肩で息をしながら大量の資源ごみを出し、思いもよらぬロスタイムに急いで職場へと向かう。
―――そんなに急いだら危ないよ。転んじゃうよ。
足元から聞こえてくる心配する声をよそに、足早に雪道を進んでいく。
就業時間ギリギリ到着し、仕事用の服に着替えているとき、はたと気づいた。
今日はいやに気づきが多い。しかし、それは天命でもなんでもない。
……お弁当、忘れた。
わざわざ資源ゴミを取りに一度家に戻ったのに、なんてことだ。
本日何度目かの肩を落としていると、他の靴たちと並べられたKEDMAから少しだけ呆れを孕んだ声が聞こえた気がした。
―――ほうらね、だから焦るとよくないんだって。
 
その日は、仕事がとてつもなく忙しかった。
朝食を食べられなかった空腹に耐えながら、なんとか業務をこなしていく。
上司から理不尽に押し付けられた仕事をやっつけるために、真顔のまま米なし弁当を掻っ込んだ。
一日中、どうしてもソリが合わない上司からの薄っぺらいご機嫌取りをかわし、早く帰りたい一心でひたすらに作業する。
「家に帰ったってどうせ暇でしょ」
「奉公の精神も時には必要だよ」
「まあまあ、そうカリカリしないの!」
「女に大事なのは愛嬌!」
「今度ご褒美においしいごはん連れていってあげるから機嫌直してよ~」
 
最後の一言に、「それ、わたしにとってご褒美でもなんでもないんですが?」と言い返し、怒りを隠そうともせず退勤した。
 
あーもう! むかつく! むかつく!
今日はなんにも上手くいかない! しかもなんだあの上司の言い草は!
むしゃくしゃする気持ちを発散させるかのように、大股でぐんぐんと進んでいく。
―――ねぇ、危ないってば。
―――もう少しゆっくり歩きなよ。
頭に血が上っているせいで、咎める声はもはや耳に入ってこない。
その瞬間、足首がぐるりと一回転したかのような感覚とともに、猛烈な痛みを感じ、そのまま道路に倒れ込んだ。
お米を炊き忘れ、弁当を家に忘れ、仕事で理不尽な扱いを受け、自分という存在を軽視され、ただでさえ上手くいかない一日だったのに、ダメ押しの転倒。
どうして今日はこんなにも上手くいかないんだ。
痛みと情けなさで涙が出てきそうになる。
 
*****
 
タクシーに揺られ、時折窓から入ってくる街灯のあかりに照らされる足元を見やると、いくつもの薄い傷がKEDMAについているのがわかる。
大事に、大事に履いてたのになぁ。
心の中で小さく「ごめんね」と声をかける。
―――雪道は危ないんだから無理しなくていいんだよ。君が滑って転んで怪我をしちゃうなんて、靴としてこれほどかなしいことはないからね。
……ねぇ、どうして君はこんなにも寄り添ってくれるんだろうか。
―――君にわからないんだから、僕にわかるわけがないじゃないか。
たしかに。そりゃあ、そうだよね。
なんとなく気持ちが軽くなり、ふわりと笑みがこぼれ出した頃、タクシーは無事に家に到着した。
 
翌日、病院に行った結果は靱帯損傷で全治1か月。
足首をがちがちに固定し、松葉杖が必須のため、外出はほぼ不可能。
これから、半ば強制的にステイホーム生活が始まる。
―――ねぇ、春が来たらまた履いてよね。それまでにちゃんと足を治してね。大丈夫、ぼくはどこにも行かないから。
前よりも少しだけ傷がついたKEDMAに「足が治って雪が解けたら、またよろしくね」と声をかけ、静かにシュークローゼットにしまった。
 

△撮影:ものすごい愛
 

 
 
 



ものすごい愛
1990年生まれ。札幌市在住。エッセイスト・薬剤師。さまざまWEBメディアにエッセイ・コラムを寄稿。結婚をテーマにしたエッセイ『今日もふたり、スキップで ~結婚って“なんかいい”』(大和書房)をはじめ、『命に過ぎたる愛なし ~女の子のための恋愛相談』(内外出版社)、『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』(KADOKAWA)が好評発売中。回転寿司では最初と最後にアジを食べる。

 
 

★札幌の春よ、来い!
次回 4月上旬公開予定
どうぞお楽しみに。

 


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