ものすごい愛さんのエッセイ、第8話。
久しぶりの掲載となりました。
その理由にまつわるエピソードを書いてくださってます。
いや〜〜!無事でよかった!!!!
先日、人生で初めて緊急入院と緊急手術を経験した。
術後、麻酔が効いて意識が朦朧とするなか、執刀医の「いやぁ~あと1日遅かったらやばかったね!」とヒヤヒヤするセリフが聞こえてきたが、無事に成功したようだ。
あぁ~! 生きててよかった! これに尽きる。
手術の翌日は痛みにもんどり打ちながら、「こんなに痛いんだから一生退院なんてできるわけないだろう!」と腹立たしさを感じていたが、医師から「いや~回復が早いね! 良好! 退院して全く問題なし!」とお墨付きをもらい、三泊四日の入院期間を終えた。
退院の際、「いつも通りの生活を送って大丈夫だからね」と言われたものの、無理である。
なぜなら、こちとら腹を切って内臓を一つ取り出しているのだから。
ただでさえ仕事で忙しい夫におんぶに抱っこの状態で生活をするのは現実的ではないし、だからといってとてもじゃないがなんのサポートもなしに生活はできそうになかったため、退院後はしばらく実家でお世話になることを決めた。
自立して離れた娘からしてみると、実家というものはそれはそれは素晴らしい空間だ。
学生時代と違って「勉強しなさい」だなんて口うるさく言われることもなければ、黙っていでも温かいごはんが出てきて、洗濯かごにパンツを放り込んでおけば次の日には洗濯されて綺麗に畳まれた状態で戻ってくる。
久しぶりの帰省かつ療養中の身ということで、常に上げ膳据え膳。
一日中パジャマ姿でソファーに寝転がり、実家に置きっぱなしにしていた長編漫画を読みふけっていても、あれこれ世話を焼いてもらえる。
両親との関係も、昔から良好。
腹の痛みさえなければ、実家は完全に天国である。
ただ、わたしはそんな実家がある地元が、正直なところあまり好きではない。
なんというか、少しだけ息苦しさを感じるのだ。
わたしの実家は、札幌市の隣に位置する江別市の端っこにある。
道外の人はもちろん、道内の人でもあまり馴染みがないかもしれないが、札幌市のベッドタウン的要素が強い。
きらびやかで心ときめくような都会ではないが、訪れた人に「えー! すっごい田舎だね!」と驚かれるほど寂れてもいない。
大して便利ではないが、そこまで不便さも感じない。なんとも中途半端な街である。
街並みに関していえば「まあ、地元なんてみんなこんなもんでしょう」と特別な感情が湧くわけでもないが、なんていうか、わたしは地元の人間関係に長く億劫さを感じている。
中学生の頃に人間関係で躓き、猛勉強をして地元の人がほとんどいない高校に進学した。
大学も実家から通える範囲では比較的遠いところに進学したため、今でも繋がりのある地元の友人はただの一人だけ。
その友人も、数年前から東京で暮らしているので、地元に帰ったときにわざわざ連絡を取って会おうだなんて人間は実質一人もいないことになる。
ただ、幼少期からなんだかんだ25歳まで実家暮らしだったため、それなりに知り合いが多いのだ。
近所を歩いて見かけるのは、クラスが一度だけ一緒になった小学校の同級生やら、よく遊びに来ていた弟の中学の同級生やら、何度か会ったことがある母の同僚やら、学生時代長く勤めていたバイト先の常連さんやら、見知った顔ばかり。
別に、彼らに何かされたわけではない。
でもわたしは、昔のわたしを知っているの人間の存在を“過去のしがらみ”というカテゴリに分類してしまう。
就職を機に実家を離れ、もう数年になる。
実家を出てからも折に帰省はしているが、ほとんど家からは出ることはない。
ふと散歩にでも出ようとすると、母から「平日の昼間からぷらぷらしてたら、近所の人にあれこれ言われるよ!」と釘を刺されるのが、地元に息苦しさを覚えるひとつの理由でもある。
それほど田舎ではない地域でも、他人に興味のない都会とは違って噂話は当たり前にあるのだ。
いくら仕事が休みとはいえ、とっくに自立したはずの成人すぎた娘がだらしのない恰好で近所を徘徊していれば少なからず好奇の目を向けられるだろうから、「もしかして出戻り?」「仕事辞めたの?」とあれこれ詮索されるのが鬱陶しいという母の気持ちはよくわかる。
わたしだって、偶然会った知り合いに「今何してるの?」「仕事は?」「結婚してるの? 今日旦那さんは?」と矢継ぎ早に聞かれると、心の中で「何年も連絡を取っていない時点でお前とわたしの縁はとっくに切れているのだから関わってくれるなよ」という不信感が湧き上がってしまうのだから。
比較的人目が気にならないタイプなのに、どうしてか地元のこの煩わしさだけは受け流すことができない。
今回、実家の滞在期間は1週間。
実家を離れてから、これほど長い期間滞在するのは初めてだ。
いくら医者から「安静に」と言われていても、1週間も寝たきりでは体に良くないだろう。
術後は術部の癒着を防ぐため、ある程度早い段階で歩行などを促されるくらいだ。
怠惰極まりないわたしでも、1週間もひたすらぐうたらしているのはさすがに飽きてくる。
そして何より、シャバの空気を胸いっぱいに吸い込みたくて仕方がない。
両親が仕事に行っている間を見計らって、パジャマから締め付けのないワンピースに着替え、ヒィヒィ言いながら靴を履いて、家の外へと出た。
切られた腹を手でやさしく抑え、小さい声で「痛いよう痛いよう……」と呟きながら、伝わってくる振動ができる限り障らないよう、前かがみでのろのろと歩みを進める。
平日の真昼間に徘徊しているだけでも怪しいのに、奇妙な歩き方がそれを増幅させているような気がしてならないが、そんなものに構っていられない。
何度も何度も通った道。見慣れた、いや、見飽きた風景。
あの家にはどんな家族が住んでいるだとか、同級生の家は次の角を曲がってすぐだとか、全て覚えている。当時の思い出も勝手に蘇る。
いつもよりずっとずっとゆっくり歩いているせいか、とっくに見飽きていたはずの街並みは少しだけ変化していることに気づいた。
目印にしていた鮮やかな外観だった家の壁はシックな色に塗り替えられていたり、昔は遠回りしないと渡れなかった川に新しく橋が架かっていたり、空き地にコンビニができていたり、よく遊んでいた公園の遊具がなくなったりしている。
ふと周りを見渡してみれば、住宅街なのに車通りが全くないどころか、人っ子一人歩いてすらいない。
こんなにもいい天気なのに、庭で畑仕事をしている人もいない。
まあ、それもそうか。
わたしが大人になり、就職と共に家を出たように、ここを離れた同世代の人も多いだろう。
かつて子育てで忙しかった親世代は、子供の手が離れ、仕事をしたり自分のためだけに時間をつかうようになったのかもしれない。
わたしだけじゃない、わたし以外の人たちの人生も確実に進んでいる。
思いがけず命の危機に瀕したからか、それともただ単純に久しぶりにのんびりした日々を送れているからか、思考に意識が向く。
これまでの煩わしさがゼロになったわけではないが、街も人も確実に変わっていっているのを感じる。
もう、わたしに付き纏っていた視線も興味もきっとない。
たぶん、わたしだけだ。
いつまでもここに囚われていたのは。
くだらない過去のイメージに縛られ、長く引きずっていた自分を、少しだけ恥ずかしく思った。
それでも、気持ちの軽さを感じるのは、久しぶりにシャバの空気を味わっただけではないはずだ。
△撮影:ものすごい愛

ものすごい愛
1990年生まれ。札幌市在住。エッセイスト・薬剤師。さまざまWEBメディアにエッセイ・コラムを寄稿。結婚をテーマにしたエッセイ『今日もふたり、スキップで ~結婚って“なんかいい”』(大和書房)をはじめ、『命に過ぎたる愛なし ~女の子のための恋愛相談』(内外出版社)、『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』(KADOKAWA)が好評発売中。回転寿司では最初と最後にアジを食べる。
次回 11月下旬公開予定
どうぞお楽しみに。