ものすごい愛さんのエッセイ、第12話。
この連載も、今回で最終回になります。寂しいなあ。
「なぜ、書くんだろう?」
ふとした疑問から、心の中を覗かせてもらいました。
最後に、ものすごい愛さんからのメッセージもあります。
ラストまで、楽しんで、どうぞ!
書くことがない。書きたいことがない。
ひとつの締め切りが終わり、ふと次の締め切りを確認した瞬間から、頭の中はそれに支配される。
エッセイスト。この肩書通り、わたしは主にエッセイを書いている。
思ったこと、感じたこと、考えたことを人に伝えるために文章にするのが仕事だが、普通に暮らしているだけではそうそう伝えたいことは生まれない。
何気ない日常の中で生まれた“気づき”というやつを大きく膨らませていけばいいのだろう。
でも、わたしの日常はあまりにも何気なさ過ぎる。
最近の気づきと言ったら、目ん玉が飛び出るほどの高額なガス代の請求書を見て「最近値上がりしてるもんなぁ」程度のもの。
それを膨らませて文章にするのがプロだと言われてしまえば、もうぐうの音も出ない。プロ失格である。
そもそも、わたしは書かなくても生きていける人間なのだ。
無職で暇を持て余していたときに、たまたま出版社やWEBメディアの人が声を掛けてくれたことをきっかけに、流れに身を任せ続けて現在に至る。要するに、ただ運がよかっただけ。
だから、書かずにはいられない人、書くことで他者のみならず自分を救っている人、誰かに自分の想いを伝えたくて書く手段を選んだ人が、羨ましくて羨ましくて仕方がない。
「書く」という行為は、わたしのリビドーからはとても遠いところにある。
過去に受けたインタビューで、「どうして書いているんですか」「なぜこの本を書いたんですか」といった質問がされることが多かった。
おそらく「少しでも誰かの救いになれば……」「ずっと苦しかったんですけど、書くことで過去の自分を救うことに繋がるかなと」などの返答が最適解なのだろうが、どうしてもそう言うことができずに「いやぁ~なんかありがたいことにお仕事をいただけまして……へへっ」と毎回ヘコヘコしていた。
ああ、なんて格好悪いのだろう。
こんな答え方をすると「まあ? 頼まれるから書いてやってるっつーか?」と斜に構えているように見られるのでは……とあとから思い出して恥ずかしくなっているのもこれまたダサイ。
毎回エッセイを書くために、自分の引き出しを片っ端から開け、中身を引っ掻き回す作業をする。
自分ひとりではどうにもならない時には、やさしい担当編集さんが「最近どんなことありましたか」「ここ一週間で何があったか全部話してください」と聞いてくれ、それに対してあるがままに答え、「そのときどう思ったんですか?」「なぜそういう言葉が出たんですか?」と、「ここの引き出し、まだ開けてないんじゃない?」と間接的に教えてもらうこともある。
が、どれだけ話しても引き出しは全て開いていて、ひっくり返して乱暴に振ってみても何も落ちてこないことを確認するだけで、ただ楽しく雑談して終わる打ち合わせのほうがずっと多い。
だから、今日で最終回を迎えるこの連載の打ち合わせでも、「書きたいことがない、ってことを書いてもいいですか」なんてエッセイの地産地消を提案する始末。
友達には「それが許されるのは大御所だけだろ」と怒られたが、まったくもってその通りである。
もう一滴も水分が出ないとわかりきっているのに、それでも絞って絞って絞り続けている雑巾はボロボロだ。
わたしは何を書きたいのだろう、なぜ書くのだろう。いつもそんなことばかり考えている。
とっくにボロ雑巾になり果てたわたしに、担当編集さんから「書いてよかったな、と思うのはどんな時ですか」と初めての質問をされた。
書いてよかったと思う瞬間は、そりゃあたくさんある。
夫や友達から「この前のやつよかったね!」と褒めてもらえたり、顔も知らない人から感想をいただけたり、時には「あなたの文章で救われました」とすごい言葉をいただいたり、丁寧に書かれた手紙が送られてきたり、飛び上がるほどうれしくなる。
出版した書籍が憧れの人の目に留まってお会いすることもできたし、テレビに取り上げてもらったこともあった。
サイン会やトークショーだって、文章を書いていなければきっと一生経験することはなかっただろう。
そうやって思い返しているうちに、空っぽだと思っていた引き出しの裏に、ひとつだけ見落としていたものを見つけた。
それは即時的なものではない、ずっとずっとあとになってから気づいたこと。
わたしは、書いたことでたしかに生きやすくなっていた。
わたしは、ずっと「自分はこういう人間でいなくちゃいけない」と思い込んでいた。
明るくて、ポジティブで、滅多に泣かなくて、泣いたとしても小さくシクシクではなくて大きくギャンギャンで、嫌なことを言われたら泣き寝入りせずすぐに怒れて、勘違いされないように自分の気持ちを言語化できて、かなしいことも笑いに変えられる。
そういうのがわたし“らしい”と思っていたし、周りの人たちはそんなわたし“らしい”わたしが好きで付き合ってくれているのだと、わたし“らしくない”わたしになってしまったら嫌いになるのだと、信じて疑わなかった。
だから、わたしらしくいられないときは、みんなが思うわたしらしいわたしに戻るまで、すべてのものと距離を取って身を顰め、わたしらしさの仮面の下で息を殺して過ごしていた。
引き出しを片っ端から開ける作業では、必然的に過去の出来事が掘り起こされる。
そのとき何を思ったのか、どうしてそういう言動をしたのか、それによって誰に何を言われたのか、一つひとつ確認する。
そうしているうちに、どん底まで落ち込んで、ネガティブから抜け出せなくて、陰でメソメソ泣いて、言いたいことをひとつも言えなくて、感情を言語化できなくて、どうしても笑いに変えられないかなしい出来事を抱えている、こんなのはわたし“らしくない”と思っていたほんとうの姿が、周囲にはとっくに知られていたことに気づく。
みんなそれをわかったうえで、「いや、あんたは元からそういうところあるでしょ」「なーにを今さら! 別に嫌いになんてならないよ!」とさも当たり前かのように「バカだねぇ」と笑ってくれているのだ。
必死に“らしくなさ”を隠そうとしていたこと、その行為が一番カッコ悪くてダサイこと、全部バレていた。わかったうえで、わたしを好きでいてくれている。
なんだ、もう恥ずかしいことなんて何ひとつないじゃないか。
何度も引き出しの中身を引っ掻き回し、しつこいほどに過去を振り返っているうちに、ひとつ、またひとつとカッコつけたがりの枷が外れていった。
なにより、どうしてこの人はその言葉をつかうのか、どうしてその選択をしたのか、相手の心情や背景を想像する機会が多くなったおかげで、他人を否定しなくなった。
文章を書く前のわたしは、今よりも攻撃的で、全方位に向けて怒っていて、想像力が乏しくて、自分の尺度で決めつけていて、他人許せなかったのに。
自分にかけた呪いが解かれ、何もかも他人にはお見通しだったと気づき、前向きに諦めがついて気持ちが楽になる。その過程を辿っていくと、いつの間にか想像の行き渡る範囲が広くなっている。これが、わたしにとって生きやすくなるということなのかもしれない。
だからといって、今後も「生きやすくなるため」を求めて書くことはないだろうと思う。
締め切りのたびに、書くことなんてねぇよ! と頭を掻き毟る日々はこれからも続くだろう。
それをどうにかこうにか乗り越えて、ずっとずっとあとになってから振り返ったときに初めて、前よりほんの少しだけ生きやすくなっている自分に気づけるから。
書くことがない。何を書いたらいいかわからない。何を書きたいかわからない。
そんなちっぽけな苦悩と付き合いながら、わたしはこれからも書き続ける。
△撮影:ものすごい愛
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『きみがいるから明日も歩ける』は今回が最終回です。
ご愛読いただいたみなさま、ありがとうございました。
この連載は、「愛にあふれた日々の中で、NAOTの靴と寄り添いながら前向きな一歩を踏み出せたら」というテーマのもとはじまりました。
「一歩を踏み出す」なんて、なんだか仰々しくて身構えてしまいそうですが、たとえ環境がガラリと変化していなくても、愛する人の気持ちを想像することも、自分の心を労わることも、ちょっと奮発してスーパーで旬の果物を買うことも、ダメダメだった一日をさっさと終わらせるために早めに寝ることも、すべて前向きな一歩だと思うのです。
それが伝わればいいな、と思いながら毎回エッセイを書かせていただきました。
必ずしも常に前に進めるわけじゃない。時には立ち止まったり、来た道を戻ることもあるでしょう。
そんなときにふと足元に目をやると、とびっきりにときめくNAOTの靴が見えたら、きっと「こんなかわいい靴を履いているなら、もうちょっと歩いてみようかな」と思えるはず。
あなたのやさしさや頑張りは、NAOTの靴がちゃんと見てくれています。
みなさんが、愛する人と、愛する靴と、いつまでも寄り添い、大切にし合えますように。
2022年3月吉日 ものすごい愛
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ものすごい愛
1990年生まれ。札幌市在住。エッセイスト・薬剤師。さまざまWEBメディアにエッセイ・コラムを寄稿。結婚をテーマにしたエッセイ『今日もふたり、スキップで ~結婚って“なんかいい”』(大和書房)をはじめ、『命に過ぎたる愛なし ~女の子のための恋愛相談』(内外出版社)、『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』(KADOKAWA)が好評発売中。回転寿司では最初と最後にアジを食べる。
読者の皆様、ものすごい愛さん、約1年の連載を楽しんでくださりありがとうございました!!